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ご家族様の声

当施設をご利用頂きましたご家族様の「声」をご紹介します。

お客様の声

父と暮らせば

お客様の声
2021年9月に母の危篤の知らせで、私たち夫婦は急遽帰国した。
その頃の日本は水際対策の強化で、私たちは空港近くのホテルで3日間検疫のために隔離され、マドリッドを出てから5日目、やっと岡山に着いた。幸い母は小康を取り戻してくれた。
 
その帰国の折に、父を他の施設からここ夕なぎケアセンターに移して頂いた。
まだその頃は面会も許可がおりており、約3年ぶりに父と再会を果たせた。
 
振り返れば、父が転んで頭を打ち入院した頃、丁度コロナウイルスが世界中に蔓延し始めていた。
その父の介護がもとで母も倒れ、入院してしまった。
 
同時期2020年は私が住んでいるスペインでは毎日何百人もの人が亡くなっていた。焼却を待つ遺体がスケートリンク場に所狭しと並べられた。マドリッドや多くの都市では今の中国のように都市封鎖が始まり、家から出ることもままならず、見つかれば罰金、拒否すれば刑務所に送られた。帰国しようとも空港まで行けず、ましてや日本までのフライトはストップしていた。
 
それでも母には毎日電話をし、父母の様子を聞くことが出来たのが幸いだった。
 
しかし段々と父より、退院して一人で家にいる母の方の体の調子が悪くなって行くのが日に日に電話から伝わってきた。
幸い2021年の夏ごろからスペインからの出国も可能になり、飛行機も飛び始めたとの知らせがあり、日本の外務省や大使館からの情報により、日本へ帰国の際に必要な、煩雑で夥しい書類を揃え始めていた。
 
それが幸いして、9月に「母が危篤」の知らせを受けた翌日に帰国の便に乗ることができた。JALのジャンボ機には乗客はたった10数人であり、今から思うと、如何にその時の帰国は奇跡的で異常な事態であったことか。
 
3年ぶりに会った父は、小さく見え、髪も真っ白になっていた。
しかし私や妻のことは覚えていてくれて、話が出来てどんなに安心したことか。
 
その頃はまだ月に1週間ほどの外泊が出来ると聞いていたので、私が日本滞在中に家に連れて帰ろうと思っていたが、それもコロナ対策のために急に中止されてしまった。
 
それでも、2022年3月に母が亡くなり、通夜と告別式の時には父に外出の許しが下りて、少しだけ一緒にいる事が出来、父も喜んでいた。
 
それが引き金となり、「父を少しでも家に帰してやりたい。」との思いは募った。
 
ケアセンターの片岡さんに相談し、母の四十九日の法要の間、一時退所させ、再入所させることが可能になった。
 
母が死ぬ前も、病院に無理にお願いし、幸い最後の正月を家で過ごさせて頂いていたので、
その時に用意した病室をそのまま父の介護室に使うことが出来、介護用ベッドも設置した。
 
家に帰ると開口一番、「やっぱり家がええ。」その言葉を聞いただけで涙が出た。
何とか自分で歩くことは出来るが、服の着替えには手助けが要る。
食事は、食欲があるので助かるが、際限なく食べ続ける。
一番困ったのが、夜のトイレだ。父と同じ部屋に私は自分のベッドを置き、寝泊まりした。
寝室のすぐ隣がトイレなので、一人でも大丈夫なのだが、心配で父が床に足を下ろすとチャイムが鳴るセンサーを付けた。そのチャイムがひっきりなしに鳴る。
トイレから帰ると、父を寝かせるが、すぐむっくりと起き上がり、トイレに行く。
一晩に10数回はこれが繰り返される。
それでも朝になると、介護パンツは重く濡れている。
私も3週間あたりから頭がぼーっとしてきて、ついつい父親を叱ったりした。
が、そのあと直ぐに後悔して自分を責めてしまっていた。
 
私はこの時ほどケアセンターのスタッフ皆さんの介護のありがたみを感じたことはない。
 
四十九日の法要を終え、その間に実姉を始め、親戚の人達とも会うことが出来て、何とか、父親を施設に送り出すことが出来た。
 
父親も嫌がらずにすんなりと、施設に戻って行った。
数日してから父の様子を聞くと、「以前より穏やかになっていますよ」と言われ、ホッとした。
少しでも家で家族と一緒に過ごすことが良かったのだろう。
また以前のように外泊が出来るようになれば、ケアセンターと家族との連携で、入所者の精神状態も安定するのではないだろうか。
いずれにせよ、次回は怒らずにもっと優しく、父親を家に迎えたいと思う。
    2022年 師走  マドリッド   山口敏郎














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